終戦記念日に思うこと
77回目の終戦記念日に思うことをつらつらと。
私は昭和生まれなので、子どもの頃は戦争体験者が身近にまだゴロゴロいました。
祖父母も従軍や学徒動員を経験した世代ですし、夏休みの宿題で祖父母に当時のことを聞くというものもありました。そして大人になってから改めてわかった祖父の数奇な運命。
また教職員にも(教頭や校長レベルの人達ですが)戦争を経験した世代の方が残っていたことから、授業で触れられる機会であったり、図書室にも『はだしのゲン』などを始めとした戦争関連の漫画や本が多くありました。植民地での日本語教育や創氏改名の話や、キリスト教徒への迫害や、飼い犬を徴収された話、疎開先で胃薬が貴重なオヤツ代わりとされた話などをそれで知りました。
なので、「戦争」というものに対して、実際に経験したことはなくとも、生々しい肌感覚というものを持つことができた世代だったとも思います。
夏には『二十四の瞳』や『少年時代』といったドラマが放送されていたりもしましたし。
けれど、時間とともにそのような生々しい記憶は失われていき、物語として様式化されたものや被害者視点側に偏った語りも増えてきたように思います。
今年も政府関係者による靖国参拝のニュースが流れてきましたが、個人的には、A級戦犯が合祀されている神社に政府関係者が臆面もなく参拝することは控えるべきと考えています。例えるなら、ヒットラーやムッソリーニやスターリンなどを崇拝する施設をその国の政府関係者が訪れ、彼らに敬意を払う姿勢を見せるようなものなので。
そして、一億総懺悔という形でうやむやにされた戦争責任の所在や、ここのところ国会議員などが臆面もなく口にするようになった侵略戦争の正当化や従軍慰安婦の否定についても歯がゆさを感じます。
歴史修正を行う人達は、戦争に巻き込まれた人々を自分と同じ人間と考えることも出来なければ、もしも自分だったら、身近な人だったら、と想像することすら出来ないのでしょう。
もちろん、人はどこまでも残酷になれるし、極限状態での人は人であることが難しくなる。
そのことを子ども達にも理解しておいて欲しいとは思いますが、子ども達には想像力とともに、国籍や人種など関係なく、皆同じ人であるという当たり前のことを当たり前であると思える人になって欲しいです。