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おそらくそれは公文算数のせいではなく

公文の算数をやって良かったという声と意味がなかったという声の両方があり、どういうことなのかと思っていたのですが、その理由の一端が垣間見えたかもと感じられた本を読みました。

子ども向けの習い事としての認知度が高い「公文」。わが家も上の子がやっていました。(いまは英語だけ継続中)

そんな公文の特に算数は、計算はできるけど文章題が解けるようにならないとか、中学受験するならばやっていた方がよいとか、公文の算数は得意だったけど数学は別に得意ではなかったとか、わりとその効能(?)については賛否両論かと思います。

私自身は小さい頃にやっていて、計算力は身についたし、文章題が解けないということもなかったし、なんだかんだ理系学部だとレポートや課題で手計算させられるので、それなりに役に立ったかな…と思っていました。

なので「計算ばっかりできても」という公文算数への評価にピンときていないところがあったのですが、今井むつみ著『学力喪失–認知科学による回復への道筋』を読んで、公文算数への評価が分かれる理由が見えたような気がしました。

最近、鳥取県でも取り入れるというニュースをネットで見かけた「たつじんテスト」(著者達が広島県教育委員会と一緒に子ども達がどのようなところでつまずいているのかを明らかにするに開発したテスト)から得られた回答をもとに、どうして子ども達が本来もっているはずの「学ぶ力」を十分に発揮できてなくなっているのか?を、著者の専門である認知科学の視点から考えている本です。

具体(文)と抽象(式)の対応がつかないまま、どんどん進む

本を読んで私の中で咀嚼したことになりますが、公文算数への評価がわかれる理由はずばり「計算式で表現できることを理解しないまま進むことが結構あるから」なのだと思いました。

どういうことかというと、15+24=39とか9×9=81とか8÷0.25=32といった計算自体は、できる。それこそ、公文算数の強みである反復練習や学校での計算カードや九九の暗唱などを通して、呪文の詠唱のように自動出力できるようになる。

だけど、その式が何を表しているのか?なぜそういう式になるのか?式にどういう意味が込められているのか?を十分につかめないまま、計算の処理だけ獲得して進んでいってしまう子ども達が、大人側が予想している以上に結構いるのではないか???ということです。

あらためて考えてみると、たしかに文章↔式の行き来は難しいのかもと思わなくもなかったり。

文章題を解くためには、文章で長々と書かれていることを把握して、それを計算式に圧縮することが必要になりますが、そのギャップって、すでにそれを習得した人が思っている以上に大きいのかもしれません。

実は我が子も…

そしてこの「計算式は立てられないけれど計算はできるという現象」、我が家の第2子が片鱗を見せています。

現在小1で、家でときどき市販のドリルをやったりしている状況ですが、その問題文からなぜその式を書いた!? ということがわりとあり。特に、引き算。

たとえば、こんな問題に一時期苦戦していました。「亀が10匹、鶴が4羽います。どちらがどれだけ多いですか?」というようなもの。

10-4=6という計算自体は問題なくできます。でも、問題文を読んで、すっと10-4=6に結びつかない。「6匹亀の方が多い」という答えはわかっているけど、式にできない。そんな状態でした。(ただ個人的にはこれも不思議で。10と4があって6を作るなら、10-4=6しかなくない?となるので。だから、10-4=6という計算処理自体もまだ十分定着してないのかもしれない)

一方で、「お菓子が10個あります。4個食べました。残りは何個ですか?」という問題なら、さくっと10-4=6を書けます。

上の子は特に問題なく過ぎていった部分だったので、下の子の回答状況を初めて見たときは、なぜこういうことに???と謎だったのですが、この本を読んで腑に落ちました。

つまり、下の子のなかでは、抽象的な引き算という「式に込められた情報」と「文章として表された(式よりは)具体的な情報」との対応付けや自由な行き来が、まだうまくいっていないのだなと。

「引き算とはなにかを減らすこと」という側面は習得しているけれど、「引き算でなにかとなにかを比べることができる」ということはまだ理解に到っておらず使いこなせない。そういう状態だったのかなとの気づきがありました。

どうすれば良いのか

本でも特に解決策が書かれているわけではないです。(教育の専門家ではないので、と線引きされています)

ですが、著者の今井先生自身は、教育指導要領を子どもの認知発達段階と合ったものに見直すのも一手ではないか、といったことを書かれていました。

あとは、とにかく、抽象的な数の操作に終始せず、遊びながら、体を使いながら、乳児期の認知発達を思い出して子ども達自身が試行錯誤しながら学ぶことを大切にしながら学習していく方法を、子ども達が大きくなっても続けていけると良いのではといったことも。

なので、学校の先生の就労環境という点で、もうすでに日本は問題ありありなので、これ以上の負担は…という現場の声もよ〜くわかる一方で、算数・数学は早いところ全国一律習熟度別にわけたほうが、皆ハッピーになれるのでは?とも思ったり。

そして本では(たしか)「スキーマの更新」という専門用語で表現されていましたが、子ども自身が、このやり方ではダメだ、自分の推論と状況が合わないなどの試行錯誤を通して、自分の中の認知的な枠組み(スキーマ)を柔軟にアップデートし続けていくという、乳児期に誰でもやっていたことをやり続けることこそ学習だ!といったことも書かれており、そういうゆとりがもっと日本の初等教育に必要なことだよなとも思ったり。

とりあえず、家庭で自分の子にできることとして、今の段階から口酸っぱく伝えていることは、

  • 適当な数を使って式を書くのはダメ絶対
  • 数が大きくてわからないなら、小さい数で考えてみる

の2つです。

ただ、この2つ目も意外と難しいのかも!?と子どもを見ていて思ったり。でも個人的には算数や数学のよいところって、数がどれだけ大きくなろうが小さかろうが、ある状況で成立していたら別の状況でも同じことが成立するとこだと思うので、身につけて欲しい。

そんなわけで、読んだ本をきっかけに、公文算数がとやかく槍玉にあげられがちな理由や、我が子が算数の家庭学習でつまづきを見せる理由がなんとなく見えた、というお話でした。

そして、下の子はこういう状況なので、計算処理だけバリバリ進めていく公文算数は合わないんじゃないかなとも思う次第。でも、もしも中学受験を視野に入れるなら、計算処理もある程度必要になってくるし…というジレンマ。どうしよっかなと考え中です。

Posted by

ちろ

一人で過ごす時間が欠かせない内向型人間。でもときどきアクティブ。

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