1/21に現千葉市長によって投稿されたツイートから始まった議論について、ここのところ、ずっと考えていました。

「男性保育士に娘の着替えをさせないで欲しい」との要望を保護者が出すことは性差別にあたるので、保育園側(自治体側)はその要望に対応する必要はなく、無視して良いものなのか?

自分の中ではようやく消化されたので、この問題について私自身が考えたこと、感じたこと、思ったことをまとめてみたいと思います。

その前にまず、リトマス紙として、私の現時点での立場(意見)を示しておきたいと思います。

今回の議論に関する、私の現時点での立場
主張 賛成 反対 備考
保育園に男性保育士はいるべきでない これは明確な性差別
男性保育士は、女児の着替えを担当すべきでない これも性差別
男性保育士による女児の着替えに反対するならば、父親による娘の着替えにも反対すべきである 何を言っているのか理解できない
男性保育士による着替え介助も、男性医師による医療行為と同様に捉えるべきである 専門職としての業務の一環という点では同様だが、異なる点もある
保護者が、男性保育士に娘の着替えを担当させないで欲しいと要望を出すことは、性差別にあたる 保護者と子どもをどこまで同一視してよいかとの問題を含むが、なぜ保育の場では「差別」となるのか
保育を受ける子どもの人権および意思が何よりも尊重されるべきである 大前提

立場が異なるので、このまま読み進めると心の平安が乱されそうだと思われた場合は、ここでそっと閉じてください。

立場は異なるけれども、どういうもんなのか聞いてみるかと思われた場合は、ぜひお読みください。

ちなみに私は現在2歳(まもなく3歳)の息子が一人います。娘はいません。

そして、0歳から保育園のお世話になっていますが、男性保育士の方にお世話になる機会はなかったという状況です。

よろしいでしょうか?

目次

そもそもの背景が不明瞭だった

議論の発端となったツイートが以下の2つでした。

でここから、ブワーっと議論が広がっていったのですが、140字という制限があるとはいえ、伝わってこなかったのは、市長が言及している男性保育士への要望が、どういう状況で出てきたのか?ということでした。

つまり、

  • 最初から、意見をすり合わせる余地もなく、「男性保育士による娘の着替えは嫌です」だったのか
  • しばらく保育された上での「やっぱり嫌です」だったのか
  • その保育士個人に対する不信感に基づいた「嫌です」だったのか

大別すればこの3つだと考えたのですが、特にどの状況が念頭にあって、市長はこんな高圧的対応(特に自身の主張への反対意見に対するリプライで)をしているのかな?というのが、議論を追っていて受けた印象でした。

まず前提として

以下、個人の意見を書き連ねていく上での前提を示しておきたいと思います。

まず、私は、保育園から男性保育士を排除すべきとは、決して思いません

資格としての成立した社会的背景、待遇の悪さなどから、女性比率が高い職種ですが、労働環境が改善されていくことで、男女同程度まで比率が上がっていくことを願っています。(2010年の国勢調査の結果では、男性保育士の比率は5.8%とのこと)

コラム4 男性の新たな職域拡大 | 内閣府男女共同参画局

私が今回の件について、すぱっと納得できないことや割り切れないことも、間近で男性保育士が働く姿を見たことがないことと、関係していると思います。

自分自身の体験、報道される男性保育士や男性教諭による性加害事件の数、日常的に目にするコンテンツなどから、漠然とした不安を感じていても、「○○先生がいる(いた)」との実体験があるのと無いのでは、感じ方は当然変わるでしょう。

ただこの点については、逆もしかりで、「○○先生がいる(いた)」との実体験をもつ人達が、○○先生は大丈夫だったのだから他の先生も大丈夫と、思考をストップさせてしまっている可能性もあると思う。

今回の市長の姿勢で最も引っかかりを覚えた点は、

「私はこれだけ体制を整え、保護者の不安にも配慮しようとしています。なので、心配ご無用。むしろ、心配することは男性差別なのですよ。だから口出すなよ。」と、一方的に保護者側へ通告している(ように上の2つのツイート以外にも目を通すと読めた)ことです。

しかしながら、前述のように、万が一の事態への不安を抱かざるを得ない社会的背景がいまだに根強くある一保護者としては感じている中で、そこから子どもを守りたいという思いを、“社会が考慮するに足る理由はない”と、切り捨てるかのような言い方には、正直カチンとくるわけです。

たとえば、保育従事者に対するスクリーニングが不十分との日本の制度が抱える問題もある。(保育従事者に限らず、教員や学童ボランティアなど、子どもと関わる仕事の従事者全般に当てはまることですが)
「男性保育士」についての「誤解」を解くために、知っておきたい3つのこと

さらに、「不慮の事態が生じないよう体制を整えること」 = 「1対1では対応しません、密室状態作りません」は強調されていても、

体制を整えた上で、憂慮していた事態が生じたとき、どういう対応がなされるのか?
どういった対応を取ることを想定しているのか?

は、現時点では、全く見えてこず。ただただ信じてくださいの一点張り。

とかく、保育に絡む事件が起きた際に、「そもそも、預けなければよかったのに」と保護者を責める声が一定数上がってくるような日本の社会状況のなかでは、不安をぬぐいさることができませんでした。(今回の議論でも、「そんな文句を言うなら、預けなければ良い」という、何の解決にもならない意見が普通に目に入ってきた)

娘を男性保育士に担当していただく機会が生じたら

最初は警戒すると思います。ですが、それは、女性保育士に対するものと同じです。

「信頼できる人か?」その1点です

私自身は、少なくとも、男性保育士に担当していただくと分かった最初の段階で「娘の着替え介助はしないでください」との要望を出すことはないと思います。
ですが、不安や懸念を抱く気持ち、そして、要望として実際に保育園側に伝える保護者の気持ちも理解できます。

そして、今回の千葉市が打ち出した、その要望自体を「性差別」とみなして取り上げないとの方針には、反対の立場です。

以下、なぜそのように考えるに至ったのか、その理由をくどくど書きます。

横たわる深い溝は、プライベートゾーンに対する感覚の違い?

3歳くらいまでは、着替えといっても、着衣の交換だけでなく、排泄に関わるお世話も多く含まれます。

今回の議論のなかでも、保育業務にたずさわる方々の、「保育士として子どもと関わる上で、生理的不快感を取り除くおむつ替えは、子どもとの信頼関係を培う上で大切な業務の1つ」との意見は、本当に多く目にしました。

しかし、それを受けて、「そうですよね。男女分け隔てなく出来なくてはなりませんよね。」とは、すぐに納得し難い気持ちがあり、何故なんだろうと考えていて気づいたのが、自分の中にある、他人にプライベートゾーンへ侵食されることへの警戒心・抵抗感の強さでした。

そしてこのプライベートゾーンに対する感覚に個人差があることが、今回の議論に折り合いがつかない要因の1つである、と考えています。

以下、1つ1つ、私個人の感覚を書いていきます。

父親なら?

身内による性的虐待事件も多いので、例外はあります。
がしかし、父親は、他人ですが、家族です。また、子どもを介す前から培ってきた信頼関係があります(あるはず)

なので、この主張や反論(?)はお門違いというか、私にとっては意味不明でした。

医療行為なら?

男性保育士による着替えは嫌がるのに、男性医師による診察は嫌がらないではないか。
すなわち、その矛盾は、保育士を専門職として認めていないことの証であり、保育業務における男性差別でもあるのだ、との意見もありました。(千葉市長もこの立場)

ですが、まず、保育園と病院では、保護者が同席しているか否かという点で、大きく異なります

保育園では自分の目の届かないところでの保育をお願いするわけなので、お世話になる方を信頼するしかないわけです。一方、診察では、基本的には保護者が付き添っていますし、疑問・質問・懸念があれば、いつでも尋ね、確認することができます。

また、診察を受ける場においても、担当医師を性別によって自由に選択できる体制を整えている病院が、身近にいくつあるでしょう?(男児については保育園で非対称性が生じますが、女児に限定するならば)

2014年の調査結果では、女性医師の比率は、全体の20.4%。小児科ではやや上がるものの、33.7%とのこと。

個人的な経験では、学生時代は毎年、校内検診にて医師の診察を受けてきましたが、医師の性別を選択する権利が与えられていたならば、女性医師を選択していたと思います。たとえ医療行為であっても、初対面の異性に体を触れられることへの抵抗がありました。(私の学生時代はおそらく今より配慮がなく、上着をすべて脱いだ状態で廊下にならび待たされたとか、そういう状況だったこともあり、なおさら)

また産婦人科についても、私は、男性医師による内診を受けることに、抵抗がないわけではない口です。女性医師でも抵抗は感じますが、男性医師と較べれば、まだ気が楽です。男性医師による診察も、回を重ねてゆけば抵抗感は少しずつ薄れていきますが、決して0にはならない。これは女性医師でも同じく。

ですが、こちらも同じく、医師の性別を自由に選択できる余地を備えているところが、一般的にあるでしょうか?

なので、致し方ないことだと割り切って、お世話になっているのが現状です。

この医療行為とは言え、自分のプライベートゾーンを異性になるべく触れられたくない、晒したくないという感覚は、男性医師の専門性を認めていないということになるのか?

担当医を性別で選んだら、性差別ということになるのか?

私はならないと思うのですが、意外にも、人によって判断が分かれるところのようだということが、今回の議論を追いかけていてわかりました。

プライベートゾーンに関与するような、他の現場では?

今回の騒動の一端で、介護の場では男女ともに人員に余裕がある場合は同性介助が基本という話や、納棺の場でも同性が担当する配慮をしている会社もあるとの話も見ました。

なので、個人のプライベートゾーンを見る、触れることがあるといった現場では、性別に応じた「配慮」が広がりつつあるようです。

それが、なぜ保育の場になると、「配慮」ではなく「差別」になってしまうのか、同じ福祉であるのに、なぜ【介護と保育では前提が違います】(熊谷千葉市長の言)と言われてしまうのか。

介護の場においても、プライベートゾーンに触れることは、専門職としての業務の1つでしょう。
しかしながら、異性による介助が受け入れられる人もいれば、受け入れられない人もいる。でのそのような場合に「同性介助の要望」を伝えることは性差別とみなされない。

この保育とその他の福祉サービスとの違いはどこから来るのか?そこが一番腑に落ちないところなのです。

「男性の保育士に着替えを担当させないで欲しい」との要望の発信源が、子ども本人ではなく保護者だったからでしょうか?

保護者の意見=子どもの意見 or 保護者の意見≠子どもの意見?

ここでもう1つ浮かび上がってくる論点が、保育の場において、保護者の意見をどこまで尊重すべきかということだと思います。

ここまで書いてきたプライベートゾーンを他者に侵害されることへの抵抗感・警戒心は、あくまで「保護者」である「私個人」の感覚で、子ども自身は預かり知らぬこと。成人における個人差と同様、強く感じる子から全く感じない子まで、年齢・性別に関わらず、グラデーションのように存在しているでしょう。

今回表明された市長の方針では、子ども本人から要望が出てきた場合は、男女関わらず保育士との信頼関係が築けていないということで考慮しますが、保護者からの要望には考慮しません、となっています。

女児が担当の保育士を配慮するに足るレベルで嫌がっている場合は、これは男性女性関係なく信頼関係が構築されていませんので、保育現場で適切に対応すること妥当と改めて書いておきます。
市長の意見の全容@Facebook より

別人格である子どもに対して、どこまで保護者の意見を反映させること、影響を及ぼすことを認めるのか?

家庭における子育てでも、悩むところですが、保育の場においてはどうなのでしょうか?

保育所保育指針には何と?

今回の議論を追いかけている中で存在を知り、初めて目を通したのですが、厚生労働省が定めている「保育所保育指針(余談ですが、厚生労働大臣の名前を見て、ああ、そういえばそうでしたね、となりました)には、保護者との関わり方について、以下のような記載があります。

▼ ただ、この後、保育所保育指針が改訂されるとのニュースが
保育所の運営指針に関するニュースを見て、朝から目の前が暗くなった | 日なたの縁台

以下、関係のありそうな記述を、一部抜粋したものです。

一人一人の保護者の状況やその意向を理解、受容し、それぞれの親子関係や家庭生活等に配慮しながら、様々な機会をとらえ、適切に援助すること。(p. 5)

保育所は、地域社会との交流や連携を図り、保護者や地域社会に、当該保育所が行う保育の内容を適切に説明するよう努めなければならない。(p. 6)

保育所は、入所する子ども等の個人情報を適切に取り扱うとともに、保護者の苦情などに対し、その解決を図るよう努めなければならない。(p. 6)

保護者との信頼関係を築きながら保育を進めるとともに、保護者からの相談に応じ、保護者への支援に努めていくこと。(p. 23)

保護者と常に密接な連携を図るとともに、保育所全体の方針や取り組みについて、周知するよう努めること。(p. 35)

子育て等に関する相談や助言に当たっては、保護者の気持ちを受け止め、相互の信頼関係を基本に、保護者一人一人の自己決定を尊重すること。(p. 36)

保護者に対し、保育所における子どもの様子や日々の保育の意図などを説明し、保護者との相互理解を図るよう務めること。(p. 37)

また「保育者における保護者に対する支援の基本」との項目の冒頭には、以下の記載もありました。

子どもの最善の利益を考慮し、子どもの福祉を重視すること。(p. 36)

つまり、子どもか保護者、どちらの意見を優先すべし、というのではなく、子どもおよび保護者それぞれと対話し、相互理解の道を探ることが望ましいというのが基本姿勢と思われます。

なので、保育所の運営を行う上で、プライベートゾーンに関する感覚の違いから来るであろう、保護者の不安や懸念を、「それは性差別です」と一刀両断するような方針を示すことが、相互理解につながるのか?

子どもの意見ではなく、保護者の意見というだけで、「性差別です」と切り捨てて無視してよいことなのか?と。

やはり私はそこで立ち止まり、考え込んでしまうのです。

生物的・身体的性差(セクシュアリティ)と心理的・社会的性差(ジェンダー)

今回の議論を追いかけていて、出典元が分からなくなってしまったのですが、「保育所保育指針」の以下の記述に言及されている方もいらっしゃいました。

子どもの性差や個人差にも留意しつつ、性別などによる固定的な意識を植え付けることがないよう配慮すること。(p. 22)

ただこの記述は、「生物的・身体的性差(セクシュアリティ)への固定的な意識を植え付けることがないようにということではなく、心理的・社会的性差(ジェンダー)への固定的な意識を植え付けることがないようにしましょう」、との方針を表するものであるようです。
保育所の保育内容に関する調査研究報告書 – 平成12年度 社会福祉法人 日本保育協会

プライベートゾーンは、生物的・身体的性差(セクシュアリティ)ですよね。

心理的・社会的性差(ジェンダー)は、つい先日少し話題になっていた、仮面ライダーのベルトを買って欲しいとねだる女の子に対し、あれは女の子の玩具じゃないからダメ、と親が返していたようなことでして。あとは、保育士は女性の仕事である、とか。

わが家の息子の場合

身近な例を挙げると、まもなく3歳になる息子は、生物的・身体的性差(セクシュアリティ)については、もう気づいていて、なんでママはおちんちん無いの〜? と聞いてきます。ですが、自身のプライベートゾーンを異性である女性保育士や女児に見られること、触れられることへの抵抗感は、まだないだろうなと思われます。

また、心理的・社会的性差(ジェンダー)については、「車・電車が好き」という男の子らしいとされる嗜好も見られますが、女の子らしいとされる「おままごと」や「人形遊び」も大好きです。

では、この生物的・身体的性差(セクシュアリティ)についての配慮は、いつ頃から、どの程度までされるべきなのか?

生物的・身体的性差(セクシュアリティ)への配慮について、個人的見解

今回の千葉市長のツイートにあった

娘を男性保育士に着替えさせたくないと言う人は、同様に息子を女性保育士に着替えさせるべきではないわけですが

との一文は、自分が持っていた感覚の非対称性、女児には敏感になるが男児においては鈍感だった、に気づくきっかけになりました(この部分の発達に関する研究動向など、ちょっとリサーチしてみたい)

なので、もし、専門家の間で、「このくらいの年齢からは、生物的・身体的性差(セクシュアリティ)への配慮を始めることが望ましい」との共通認識がすでにあるのであれば、それをふまえた議論が進んで欲しいと思いましたし、
未就学児からそのような配慮が必要であるということならば、保育の場においても、同性による着替え介助が望ましいのではないかとも、私は思いました。

なので、この点について、自治体として男性保育士活躍を推進し、絶対数が増えていくことを期待しているのであれば、議論しても良いのでは?と思ったのですが、市長のコメントを読む限りでは、その考えはないようです。

私は性区分が不要と言っているのではありません。保護者側が今すぐできる性区分もしていないのに、専門職の性区分を議論する必要はありませんよね、ということです。(Facebook上でのコメントへの返信より引用)
市長の意見の全容@Facebook

まとめ(とボヤキ)

そんな訳で、言いたいことは言い尽くしたので、まとめたいと思います。

  • プライベートゾーンへの感覚は、人それぞれ。尊重した方がお互い幸せになれると思う。
  • 生物的・身体的性差(セクシュアリティ)についての配慮や発達に関する議論が、今後深まりますように。
  • 保育士は、家族ではない他人。保護者の要望を切り捨てるのではなく、相互理解&対話の道を探るべし。

となりますでしょうか。

くどいようですが、私は「男性保育士による娘の着替え介助はやめてください」との保護者の要望を全く取り上げないとの姿勢には賛同できません。

ですが、「専門職における業務の1つを、性別を理由に排除される=性差別である」との主張は理解できますし、実際、性差別との側面を持つと思います。

しかしながら、プライベートゾーンに対する考え方や生物的・身体的性差への配慮の必要性に関する議論が置き去りにされたまま、そういった要望をもつ保護者に対し、それは「性差別にあたるので話し合いの余地はありません」との対応が強行されることには、脅威を感じます。

本当に、子どもが万が一の事態に巻き込まれてしまったとき、懸念や不安を抱いていたにも関わらず、それを伝えることを拒否されていた状態にあったのでは、悔やんでも悔やみきれないと思うのです…。

子ども第一という点で思いは同じなのですから、対話の場は常に開かれていて欲しいと思います。

さて、ここまで読んでくださった方は、薄々感じ取っていらっしゃるかもしれませんが、以下ボヤキ。

ぼやく

今回の議論における熊谷千葉市長の言い草というか、議論の進め方や受け取った意見への返し方には、私は結構話を追いかけていてイラつかされました。
なので、今回の議論が平行線をたどり前向きな着地に至らなかった要因の1つには、「反対意見に対する、市長の対応」が関係していると思います。

たとえばTwitterでは、コメント返しでこんな発言までされていて、おいおい…と思わされたり、

Facebookにきたコメントへの返答でも、このように書かれていて、

もう子供を自らの主義主張のために使うのは止めましょう。なぜ保育所に預けているのですか?
子供が喜んで保育所に通っていると思うでしょうか。私も保育所に預けてきましたが、本当は親とずっと一緒に居たいと思っています。子供は嫌がっているけど大人の都合で預けているんですよね。
でも、保育所は専門職として温かい保育をしてくれる、その信頼があるからかわいい大事な我が子を預けているのですよね。

心の底には「3歳児神話」を根強く持ってそうね…と思ったり、
「子どもは嫌がっているけど大人の都合で預けているんですよね」って、それ、保育行政に携わる側のトップが言うの!? と、地雷を踏み抜くような発言をしていたり。

さらには今回の一連のやり取りを「区別を求める多くが女性という点が面白いですね」とまとめていて、「面白い」と言ってられるお立場で大変結構なことですね、と思わされたり、

LGBTの方に対しては、生理的に嫌との感情を表明することは当事者を不当に扱っていないとの認識(!?)である一方、「男性」保育士に対しては、保護者が懸念を表明することさえ許容できないとする、清々しいまでのダブルスタンダードが見られたり。LGBT当事者の方に不快感情を表明することは、マナー(!?)がよければ良いとでも!?

その他、意識的になのか無意識的になのか分かりませんが、主語を都合よく言い換えたり、広げたり、せばめたり、それはもうなんだか色々と気になる箇所が多々ありました。

カナダのトルドー首相のように、

私たちの意見は一致しないこともあります。ですが、皆さんの意見や懸念は、いつでも受けとめますよ。

と、たとえ嘘であっても、オープンな姿勢を示して欲しいなと思いました。以上です。

市長の意見の全容からところどころ引用してきましたが、全文はこちらからご覧ください。